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TA的每日心情 | 怒 2023-6-30 09:44 |
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签到天数: 1518 天 [LV.Master]伴坛终老
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发表于 2015-2-10 21:10:57
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/ w* _1 u1 @2 \1 g# T“抜打座谈会”事件应该不是变格派对本格派的非难,实际说的应该是文学派和本格派的事情,是文学派和本格派之间的冲突。
) h6 b* O; W. K" O! O我在网上找了些资料,基本能说明文学派是一个怎么样的由来。
, ^% i8 @: \2 p事情的起因应该是昭和10年(1935年),有两位作家对于侦探小说有不同的看法。
& x# }. p9 u6 O2 h简单总结两人可能是这样的意思:8 r; d8 h% B+ I( p
甲贺三郎认为”侦探小说毕竟是娱乐小说,文学性之类的没有必要考虑。这种事由其它的小说做就行了”。
' g' t- q/ G8 I: [1 E木木高太郎认为“侦探小说也应该有文学性,能成为艺术”。0 s& z6 s6 _1 k# h- K1 B
这时候应该是有一部分人赞同木木高太郎的这个说法(“抜打座谈会”的那写人应该就是支持者),然后第二年木木高太郎的《人生の阿呆》在1936年作为侦探小说作家第一次获得获得直木奖(后来查了下直木奖貌似也是从1935年才开始的),我觉得有可能就是因为这一事件,让人觉得“侦探小说也能成为艺术”这个主张有可能实现,这个极有可能就是文学派的由来。5 Y: n' u; a) M# D- ^+ o: y
按照后面的实际发展来看,好像是文学派的优秀作家很少(其实我觉得可能根本就是文学派的作家没有一个人能写出他们主张的有思想有文学性的作品),但相反本格派的优秀作家很多。! _6 y4 _' h( e& ]& J
两边反差太大,估计文学派的日子也不好过,恼羞成怒(个人看法),然后文学派通过“抜打座谈会”讽刺本格派“只是凭借低级的侦探小说被发行量大的杂志登载,除了畅销一无是处之类的家伙,而杂志之所以这么做只是处于经济的考虑,而本格派大多都是这种人”,“抜打座谈会”里的大坪砂男、宮野村子、木木高太郎、永瀬三吾、氷川瓏、本間田麻誉等几人应该都属于文学派。
5 J! n) U* i9 G3 t" m: w接下来应该是《新青年》刊登了“抜打座谈会”里文学派的主张和讨论(看情形《新青年》应该是亲文学派的),而后江户川乱步在《宝石》发表了《评论「抜打座談会」》的文章(这样看来《宝石》杂志社应该是支持本格派的)。4 p- ~7 n3 H( M3 [5 _0 c v
接下来的事件你发的内容中都有了。随后《新青年》休刊应该是导致文学派衰退的一个比较重大的原因了,应该是没有发布主张的平台了。' l; \( k# `0 r0 I1 F0 \
随后一个重要的人物松本清张登场了,松本清张的小说被定义为社会派,正是由于松本清张的出现导致当时的本格派一下子没落了。而其实松本清张的小说一定程度上符合了原来文学派的一部分定义,不知道这能不能算是文学派的变相胜利?但其实社会派的这个说法的出现其实等于完全断送了文学派的说法了。所以社会派能否看做是文学派主张的一个新变种?或者也可以说两者是两个派别?这个我觉得就是仁者见仁智者见智的看法了。
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以下是网上搜到的资料,不知道是否正确,完全根据这个资料做出的一些推测和看法。, H! ~. q0 L' ?4 `& B
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8 P% m! E7 i" z2 c
( v6 K+ }/ H" h) O" c3 W, N> 本格派と文学派の論争があり3 @3 v4 ~, R( b6 n2 ~, Q
> それが新青年と宝石の雑誌編集部の争いとなって
; n0 D z y* ^: H
- }3 Y3 E) u d0 P8 X> のち4 |/ V* `) ?3 i& O
> 新青年の休刊で文学派は一気に勢いを無くし% r8 x; m8 G* x! W6 S& j) T/ Q
> 衰退した、ということなのですが
/ B% \! }: b, n5 v: B( }
$ O5 b2 l7 x# o `; \8 c; O3 f; Sこれは昭和25年に起きた「抜打座談会事件」の経緯かと思いますが、本格派と文学派の論争というのはその時に始まったものではなく、さらに15年も前の昭和10年に「ぷろふいる」誌上で起きた甲賀三郎と木々高太郎の論争に端を発します。
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0 R1 u0 J5 U, ]簡単にまとめると
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. W t# }6 s& L. o) Y; N$ _: A甲賀9 s! b* w' M- L) @
「探偵小説は所詮は娯楽小説なんだから、芸術とかを考える必要はない。そんなことは別の小説にやらせとけばいいんだ」
9 i, N# P. X7 V# H q+ @) d8 `2 _3 o! c' G) g5 S+ u
木々- b& Z" t/ v6 s; R- N9 M
「そんなことはねぇ!探偵小説はその精髄に至れば立派な芸術小説となるんだよ」
# ?) e6 C2 Q/ K! ~$ M; f4 T6 [- u9 H$ i" r. ^6 J; o9 v+ O
という論争です。7 V9 o, E! q0 L8 `1 t
木々高太郎は翌年の『人生の阿呆』で探偵小説作家として初めての直木賞作家となるなど当時大変に評価の高かった人で、流行作家へのひがみでも売れている作家へのやっかみでも、ましてや大ヒット編集部へのあてつけで論争したわけでもないです。
^+ D5 ?: Z& }" e$ u, z9 K& \9 iなお、余談ですが「抜打座談会事件」当時の「宝石」誌も「新青年」ほどではないにしろ、経営はかなり悪化しており、お世辞にも大ヒットといえるような状態ではないです。
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* P: d& N% Q$ X" Qこの「探偵小説だって芸術に成り得る」というのが文学派の主張ですが、あくまでも主張であり、思想であって実践ではないです。こういう理念のもとで作品を書くべきだということであり、では実際に文学派の作家がその理論に合致した作品をたくさん発表したかというと、そういうわけでもないです。
$ V+ b5 ~. N2 v; Bこれは本格派の側にも言える話で、本格派の中心人物は甲賀三郎でしたが、戦前は本格派なんて全く売れなかったので短編以外は本格浜作品は殆ど書かず、戦後に書かれた代表作である『支倉事件』は実録犯罪小説であり、文学的にも優れた作品です。文学派的作品を書いていないわけでは全く無いです。あくまでもそうあるべきだという主張です。
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ただ、はっきり言ってしまえば文学派の主張は理想論ですから、その理想を現実に移すには大変な力量が必要です。しかし、当時の文学派にはそんな力量のある作家はいなかったというに過ぎません。文学派と本格派のどちらか正しいとかどちらが優れているという話ではなく、当時の文学派には優れた作家は少なく、本格派には優れた作家が多かったというだけの話です。2 t( T8 t' ~! R+ ^% s
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しかし、' W5 v- ^4 Z2 } R/ n; o
, u/ M. M' w6 q F) U- y9 k> 新青年の休刊で文学派は一気に勢いを無くし
$ D# w0 S8 d0 t8 c> 衰退した、ということなのですが3 ~$ b9 k' q$ f# Z
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というわけではありません。この「抜打座談会論争」は座談会を掲載した「新青年」が、そのわずか3ヶ月後に休刊してしまったため、文学派側の主張を述べる場がなくなってしまい、終焉したわけですが、その数年後に、- p2 e, w# [, x! {4 p5 l6 _
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> リアリティのない名探偵モノや6 A( Y1 I- _2 F
> 表面的なエログロ、ショッキングな殺人シーンで
O) z! e5 z" K" ~% R> 売れたら勝ちで下品に儲ける作家に対し
; m! H) k5 Z+ ?0 ^6 T> ' N7 I7 y* [6 ?# i9 G5 U! ~& f [
> 等身大の主人公と作品の社会性について( K# B) N" E, r, k3 b' H
> 訴えてたらしいようですが
3 F9 O+ Q* y' S5 `- ]) e9 h/ @2 M" {' k' e& I
という文学派の主張を実践できる大作家が登場します。その名を松本清張といいます。松本清張の作品はまさに文学派が探偵小説に対して提示した主張の実践と言ってよく、文学派がどういう作品を目指したかは清張の作品を読めば一目瞭然と言えます。
2 [# B) L/ I" D8 I$ |$ O+ O清張作品は日本のミステリ界を席巻し、その概念を根本から変え、一時期は従来の本格派の作品をほぼ駆逐してしまいました。結局、日本ミステリ史的に見れば文学派は衰退どころか完勝したと言って良いかと思います。- Y1 i- K# s. d+ R
現在からみると当時の論争がどうにも的外れに見えるのは、松本清張の登場によって大きく変容してしまったミステリの視点から見ているからでしょう。松本清張の登場を促したという点から見れば、あの論争にも十分に意味はあったろうと思いますが。
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& s- I& M' ~4 u% Jちなみに夢野久作は本格派・文学派論争とはほぼ無関係です。
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P.S.
) D% w0 b% ?4 W' ?& p9 } I6 x> 大衆小説 VS 純文学論争! @2 A3 @. B" s$ T- Z# {. z
> の推理小説版だったのでしょうか# i, ]: J$ w) I% b* `
+ x9 ^4 ]; U' i, \本質的には少し違います。
+ x' O0 _4 Y" h+ l s v! U S* i5 y) b$ t- C! d9 p @- D
当時は純『文学』と大衆『文芸』は相容れない異なるものとされていました。そして探偵小説は文学たるべきか、文芸たるべきか、どちらが作品として良くなるのかという議論と言えます。" n. ~: j8 D2 c }1 z/ _
ただし、ここには文学と文芸のどちらとも成り得る作品の存在という視点が欠如しています。両者の間にあるという意味の「中間小説」という概念が登場するのは戦後になってからです。
, ]6 _& K4 m; c: L現代では文学と文芸は明確に線引されているわけではなく、作品に含有する要素とみなされるのが一般的です。この2つが相反しないという前提に立つのであれば、本格派と文学派の違いは結局好みの違いに還元されてしまい、当時と現在では議論の意味は異なってくるかと思います。
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